104号

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天皇親政体制の虚実49ている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない」とは天皇親裁による統帥を批判したものではない。東条は陸海軍統帥の不一致を言ったものであるが,加えて,内閣総理大臣が外交,内政の決定権者で....

天皇親政体制の虚実49ている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない」とは天皇親裁による統帥を批判したものではない。東条は陸海軍統帥の不一致を言ったものであるが,加えて,内閣総理大臣が外交,内政の決定権者ではなく,軍制,軍政の論議にも加われないという事も,統帥不一致とともに日本の制度的問題と言うべきであった。加えて,軍内局(参謀本部,軍令部を含む)課長に権限が集中する,日本の官僚機構に特有の,台形的権力構造にもその要因があった。『昭和天皇独白録』では昭和前期の政治家・軍人の多くに対し,昭和天皇は厳しい評価を行ったが東条は,天皇個人からの信頼を最も強く受けていた軍人であり忠臣であった。山下と東条の遺書を比較すると,山下の遺書には天皇への言葉が一言もないが,東条の遺書には天皇への配慮に充ちている。両者と天皇との距離に大きな差があったことは,彼らの経歴から首肯できる。日本の統帥不一致を個別の要因に帰すべきではない。日本の統帥部は大本営設置後においても,アメリカのような統合参謀本部,自衛隊の統合幕僚会議とは異なり,陸軍,海軍,陸海軍それぞれの統帥部,さらに陸海軍を代表する皇族武官が独立し,個別に天皇の下に統帥される組織であった。陸海軍不一致は,明治初期からの構造的な問題であった。第3次近衛内閣が倒れ,東条陸軍大臣自らが内閣を組閣した。東条英機は,陸海軍個別に天皇の下に総帥されている分裂した統帥部を統合すべく,昭和16年11月4日,初めて陸海軍合同軍事参事官会議を行った。軍事参事官会議の歴史は古く,憲法制定以前の明治20年6月2日,勅令第20号による軍事参議官制度に始まり,明治33年勅令第212号によって改正された。軍事参議官の構成は,陸軍大臣 海軍大臣 参謀総長 監軍 海軍軍令部長,侍従武官長など総勢16名から19名であった。しかし,軍事参議院それ自体は,統帥部の分裂を補完するものではなかった。東条英機はメモ魔と言われ,裁判でも未発表の軍事参事官会議のメモを残していた。対米決戦回避,外交不調の場合の見通しをしめし,東条は陸相としての立場から「2年後の見通しは不明なるため無為ニシテ自滅ニ終ランヨリハ難局ヲ打開シ得ベク全力ヲ尽くシテ努力セバ将来ノ戦勝ノ基ハ之レニ依リ作為シ得ル」72 という意見を述べた。朝香軍事参議官は,天皇が憂慮した陸海軍緊密