104号

104号 page 54/94

電子ブックを開く

このページは 104号 の電子ブックに掲載されている54ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
52 高知論叢 第104号12 各巻の該当年数は以下の通り,第1巻 嘉永5年-明治元年,第2巻 明治2年-明治5年,第3巻 明治6年-明治9年,第4巻 明治10年-明治12年,第5巻 明治13年-明治15年,第6巻 明治16....

52 高知論叢 第104号12 各巻の該当年数は以下の通り,第1巻 嘉永5年-明治元年,第2巻 明治2年-明治5年,第3巻 明治6年-明治9年,第4巻 明治10年-明治12年,第5巻 明治13年-明治15年,第6巻 明治16年-明治20年,第7巻 明治21年-明治24年13 明治元年1月13日,太政官代を九条家に置く,毎日巳の刻参集申の刻退出を令す。一条院にあった参与役所を九条代に移した。1月27日太政官代,参与役所を二条城に移した。このとき,従来は摂関家の下にあった太政官が初めて一定の場所に定まり,独立した庁舎を有するようになった。1月17日三職七科制が制定され,総裁を皇族,議定に宮公卿諸侯,参与事務を参議が担った。2月3日太政官代に行幸した。3月9日太政官代二条城に行幸した。4月4日二条城にて万機親裁の詔を発布。4月6日天皇は諸藩兵の操練を大坂城中で観た。(『行在所日誌』・『明治史要』)4月21日太政官代を宮中に移した。4月21日天皇は後宮より表御殿に移り,辰の刻に毎日御学問所にて政務を総攬し,申の刻入御することを天皇が申し出た。参与横井平四郎は「主上日々出御万機を総攬したまふ…抑も斯くの如き盛事は千余年来絶無に属す…並々ならぬ英姿恐悦無限なりと」と述べた。以後この年,9月20日の東京発行幸まで毎日政務を総攬した。14 明治2年1月4日以降小御所政始の儀,未の刻(2時以降)5日午の刻(12時以降)参内,7日午の刻から未の刻まで参内,紫宸殿にて,9日出御始臨御,議政行政官参朝を毎日巳の刻議定参与は会議。午後それぞれ執務,「天皇は御学問所に出御 万機親裁 輔相議定参与を御前にて宸断を仰がしむ」『明治天皇紀』第2巻17頁 輔相以外は近習を以て候して参入,8月7日,毎日巳の刻より午の刻まで小御所代に出御,御前にて大臣・納言・参議列坐して事を議し,万機を宸断あらせらる,但し諸省卿は許可を得て会議に列した。15 明治3年1月神宮奏事始 神祗伯中山忠敬,奏上,ついで政始の儀,同日に政と祭事を初めて行う。11日海軍始業式,17日軍神を皇居に祭り練兵を天覧,鹿児島高知藩,親兵3000人参加。これが「後年陸軍始の濫觴」とされ,以後毎年恒例となる。参加の将兵に酒魚を賜り,皆感激した。3月25・30御前会議を開催した。議題は,大村益次郎暗殺犯の処刑と弾正台員選任について。暗殺犯の主張を正当化(停刑)する者を天皇は処分した。3月2日10・12・14・24日御前会議,同じく弾正台員選任(弾正台は太政官制下に設置された警察機関であり,同4年,司法省に合併された)5月4日,10日御前会議。6月22日,24日には御前会議。10月2日,4日には御前会議。この年は年末まで藩知事より上書,奏聞7回。辰8時の刻から戌8時の刻を通例として吹上御苑に出御する。5月,6月における太政官への出御は,5月5日,6日,12日,6日,21日,26日,6月11日,15日,21日,23日,26日,7月16日,21日,26日の14回であった。16 明治4年3月外務権大丞楠本正隆より屯田,征韓の議を建議。7月西郷から岩倉,三条に侍従を士族に,宮中官制を廃止し,侍従,侍講の改革を進言した。木戸,西郷は大隈,板垣を参議に推薦したが大久保,岩倉は反対した。17 明治5年2月兵部省より,陸軍省,海軍省設置の建議があった。2月山県が近衛兵設置を上奏した。同2月,山県は天皇が行幸すべきとして,陸軍省として建議した。特に全国の鎮台,県庁に行幸すべきとした。この建議を受け入れ,その後天皇は全国に行幸する。大阪,京都,下関,長崎,鹿児島に行幸。明治5年12月,元田は侍従長を西郷従