104号

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天皇親政体制の虚実55朝廷にとどまる。同上書252頁内閣機密事項の事務会議は天皇臨席の時に行う。内閣の公文の形式を,親裁を仰ぐ者,奏事旨を取る者,の二種類とする。25 明治10年8月14日, 官軍日向を陥落, 延岡....

天皇親政体制の虚実55朝廷にとどまる。同上書252頁内閣機密事項の事務会議は天皇臨席の時に行う。内閣の公文の形式を,親裁を仰ぐ者,奏事旨を取る者,の二種類とする。25 明治10年8月14日, 官軍日向を陥落, 延岡の戦い, 前線の状況を報告, 参軍山縣有朋 西郷前線で指揮,明治10年10月25日 有栖川宮 熾仁親王平定を電奏 明治10年10月岩倉進講「具視明治維新前よりの詔勅及び布達書の概要を適録し,先づ当直侍補をして之を読ましめ,而して後詳細に其の趣旨に就きて説明したてまつる,具視,詔勅及び布達類は悉く聖旨に出でたるものなりと雖も,年所を歴るに従ひて或は御記憶より脱せんことを慮る」この年10月より年末まで9回に渡って進講,奏聞,11月,侍従を各鎮台に派遣して隊長,部長に勅語し兵を慰労する。12月,岩倉,陸海の元帥人事を内奏。26 明治10年9月12日「本日より10月2日に至るまで21日間内閣に臨御あらせられず」京都で脚気と風邪の為に還幸することができず。257頁『第4巻』27 明治10年2月征討決定の日木戸は鹿児島に行って力を尽くしたいと申し出たが「天皇聴したまはず,是の日孝允を召させられ,慰諭して厳の之れを止めたまふ」明治10年3月4日木戸孝允戦況及び将来の目的を上奏,8月14日,官軍日向を陥落,延岡の戦い 前線の状況を報告,参軍山縣有朋,西郷前線で指揮。明治10年5月元田永孚上奏東京へ帰還要請 陛下内閣ヲ以テ常殿となし大臣ヲ以テ腹心トナシ…天子ハ四海ヲ以て家トス」28 明治11年3月,岩倉儀制調査局設置を建議,「調査すべき事項百数十件を憲法・規則・儀式・雑件の四綱に分之れに付す」明治11年5月 侍補奏請,元田,佐々木親政の実を挙げたまわんことを奏請す。親政といっても内実は大臣に委任している。2・3人の権力者の独裁になっていると思われている「万機親裁の肝要なるを奏上するや,畏くも両眼に涙を浮かべさせらる」「宮内省の改革を行ひ,内大臣若しくは内廷総裁等の官を置きて 総管の任に当たる者を物色し,参議大久保利通を以て最適任と為す」同意を得,伊藤も賛意した。しかるに宮内卿を受諾した直後大久保は暗殺された。凶徒の書いた文書には「上天皇陛下の聖旨に出づるにあらず,下衆庶人民に由るにあらず,唯権官数人の臆断専決する所たり云々との意を記せり,是れ天下一般の所論にして,其の実なきにあらざれば,万機親裁の実を挙げたまわんこと最も急務なりと,乃ち其の趣を奏請することに決す」同上書 410頁 侍従の地位を高くして侍補を兼ねる,侍補を廃止し省長官以外の参議を侍補にすることを提案した。12月侍補,改置された。明治11年10月 侍従米田虎雄「明治天皇及び大臣参議に関する聞き書き」竹橋事件の処理に関する天皇と参議について。「主上ハ参議参内ノ遅緩ヲ大ニ御逆鱗被遊サレシトノ事宮内へ第一ニ駆付タルハ吉井山田ノ二人ノミ大隈公ハ翌日御前ニ於テ宣告文ヲ読ムニ声顫(声がふるえ)キ読了ス能ハス」米田虎雄(侍従)の内話,朝比奈元成大隈文書(早稲田学所蔵)明治11年12月,参謀本部設置「天皇,参謀局と陸軍省との間に将来紛議を惹起することをあらんを深く慮らせたまひが,大臣及び陸軍卿山縣有朋等の具奏する所に依り,遂に廟議を納れ,是の日,参謀局を廃して新たに参謀本部を置き,其の条例を定めたまふ」「従来の定額金八万円を増加して大に之れを拡張し,軍令・政令の権衡を平均せられんことを請ふと,廟議之れを納れ,定額金の外の金二十五万円を支給すべきに由り,其の改正案