106号

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16 高知論叢 第106号慶応3年,天皇は1,000年来の伝統を破って御所を出て,江戸まで行幸を行った。この時の行幸において沿道各地の国民に金を下付した。その時の金品の出所の大部分は豪商,諸侯からの寄付であり,....

16 高知論叢 第106号慶応3年,天皇は1,000年来の伝統を破って御所を出て,江戸まで行幸を行った。この時の行幸において沿道各地の国民に金を下付した。その時の金品の出所の大部分は豪商,諸侯からの寄付であり,功労があった国民に天皇が下付した初めての行為であった。維新政府の勲位制度は戊辰戦役の論功行賞に始まり,すべて御前会議で決定され,明治天皇から裁可される姿が『明治天皇紀』に記されている。以後,版籍奉還後における諸藩藩主と功臣に金と石高が与えられた。この時期までは国庫が朝廷の財政と同一であった。明治初年,高官として任用された徴士と大臣の人事は維新の論功行賞の意味があった。明治2年に徴士は廃止され,親任官15,勅任官16,判任官17の区分となったが,旧徴士が文武官登用制度をつくり明治政権は安定した。勲章制度に先んじて新政府は明治元年戊辰戦争の論功行賞を行った。勲章の制度化以前の名は,論功行賞,章典禄,賞牌であった。旧勢力への禄高は,維新の論功行賞と同義であり,それらは叙勲に引き継がれるものであった。高官の任用を補完するものとしての勲位が成立した。西欧の形式を模したとされたが,実態は古代から継承されたものであった。勲位制度がフランス軍制からの模倣であったことは,Medaille(メダイユ)という最初の訳語からも読み取ることができる。明治4年9月,新政府は賞牌(勲章)制度の審議を立法機関である左院に諮問し,細川潤次郎,大給恒ら5名をメダイユ取調御用掛に任じ,勲章に関する資料収集と調査研究に当たらせた。位階制が文武官の現職時代における人事評価の結果を意味するものであるとすれば,勲章年金は文武官退任後に及ぶ栄誉と経済的保障であった。以下に明治初年からの勲功事蹟を示そう。表6は叙勲制度が定まる以前における天皇の名による各種論功行賞の一覧で15 公式令 第十四条 親任式ヲ以テ任スル官ノ官記ニハ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣総理大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス宮内官ニ付テハ宮内大臣年月日ヲ記入シ之ニ副署ス16 奏任官の上位に位置する高等官,親任官と高等官一等と二等を勅任官,高等官一等と二等のみを勅任官という場合がある。17 高等官(勅任官・奏任官)の下位に位置する官吏,天皇の官吏任命大権を行政官庁に委任され,任用される。