106号

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54 高知論叢 第106号例となっていた。人事局長はこの会議の原案を作成する。ただし,侍従武官長は内大臣から内奏する。2・26事件後の人事について,額田坦は,本庄繁大将の後任侍従武官長はについて「お上(天皇)....

54 高知論叢 第106号例となっていた。人事局長はこの会議の原案を作成する。ただし,侍従武官長は内大臣から内奏する。2・26事件後の人事について,額田坦は,本庄繁大将の後任侍従武官長はについて「お上(天皇)は蓮沼中将をご希望」74 であり,“御上の御信任”が篤い蓮沼中将を中心として,紆余曲折があり,3候補から選出した。しかし,「山下中将の軍司令官親任」75 という人事上奏案が裁可されないことがあり,2・26事件を天皇が誤解した事によるものだった,と述べている。天皇は2・26事件の皇道派黒幕に山下奉文がいるとして,終始山下中将を遠ざけたとされているが,額田の回顧録でもそれが裏付けられている。『侍従武官長奈良武次日記』には,侍従武官が取り次いだ武官親任官任用が記されている。同日記の記述に依拠して,昭和初期の武官人事親裁モデルを図7・8に示した。侍従武官長と複数の侍従武官府は選りすぐりの将官を抱えた,明治初年から設置された一つの武官府であった。侍従武官などの側近は,天皇という尊称は用いず,御上,聖上という尊称を用いた。侍従武官長は天皇の内意に合致する陸軍中将から選ばれ,侍従武官には陸海軍将官が任用された。侍従武官長は,陸海軍大臣,総理大臣を経て任用される,天皇にとって,最も重要な武官人事であった76。重要な高官人事は裁可に至るまで以下の手順を経て上奏に至った。1.親任官以外や宮中武官を除く人事は,人事部局等から侍従武官を通じて天皇に直接,上奏,裁可されるか,もしくは侍従武官長を通じて伝奏,裁可に至る場合がある。2.親任官,宮中武官は侍従武官を経て天皇の内意を伺い,しかる後,上奏,裁可されることが多い。3.特に重要な側近の人事,例えば侍従武官長77,参謀総長・軍令部総長など統帥部人事の場合,内意を伺い,内々奏の後,内奏,上74 同上書92頁75 同上書95頁76 大正期から仕えた奈良武次は,昭和天皇にとって最も信頼がおける武官長であった。後任の本庄繁は2.26事件後に退任したが,就任当時から本庄の人事に天皇は難色を示していた。「武官長後任御内意を伺ひしに,本庄に就いては御懸念あり」昭和8年2月21日(火)『侍従武官長奈良武次日記・回顧録第三巻』514頁77 明治初年以降,侍従武官長は陸軍出身(中・大将)が慣例であった。「侍従武官ハ天皇ニ常侍奉仕シ軍事ニ関スル奏上奉答及命令ノ伝達ニ任シ観兵演習行幸其他祭儀礼典宴会謁見等ニ陪侍扈従ス」侍従武官官制(明治29年勅令第113号)