高知論叢107号

高知論叢107号 page 130/180

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45 高知論叢 第107号九月六日以降、大本営政府連絡会議が開かれた日は、九月一一日、九月一三日、九月一八日、九月二〇日、九月二五日三六、一〇月二日、一〇月四日、一〇月九日、一〇月二三日、一〇月二四日、一〇....

45 高知論叢 第107号九月六日以降、大本営政府連絡会議が開かれた日は、九月一一日、九月一三日、九月一八日、九月二〇日、九月二五日三六、一〇月二日、一〇月四日、一〇月九日、一〇月二三日、一〇月二四日、一〇月二五日、一〇月二七日、一〇月二八日、一〇月二九日、一〇月三〇日、一一月一日、一一月二日、一一月五日、一一月一二日、一一月一三日、一一月一五日、一一月二〇日、一一月二二日、一一月二六日、一一月二七日、一一月二九日である。各連絡会議において戦争準備と、建前としての外交交渉報告がなされた。連絡会議は開催されるまでの準備によって大要が決定された。開戦準備を練り上げた者は、奏任官から構成される統帥部事務局であった。有末次、石井秋穂ら大本営事務方による会議は数十回を数え、石井の「省部衝突の連続」という述懐は誇張ではなかった。遡れば大本営政府連絡会議は、昭和一二年に設置され、日米開戦までの四年間で計七四回開催されている。そのうち実に三分の一が昭和一六年九月以降の二ヶ月半に開催されたことになる。九月六日以降における政府大本営連絡会議のすべてに天皇が出席したという記録はないが、一一月四日軍事参議院、一一月五日御前会議、一一月一五日御前兵棋作戦、一二月一日御前会議における開戦決定には出席している。九月六日御前会議における帝国国策遂行要領の決定が最も重要な意味を持った事は間違いない。参謀本部第二〇班の記録によると、昭和一六年一〇月三〇日の政府大本営連絡会議は、東條内閣成立によって、表向きは九月六日の御前会議決定を再検討するために開かれた御前会議であった。資料一二は一〇月二三日から三〇日にかけて開催された政府大本営連絡会議議事録表紙である。表書きには「東條内閣組閣に当り九月六日ノ御前会議決定ヲ白紙ニ返シテ再研究スルコトヽナシ、七日間ニ亘リ真剣ニ検討論議シタル成果ハ本書ナリ」三七という、七日間の検討を行った旨、有末次によって記されている。有末次筆記による「九月六日御前会議決定を白紙に返して再研究」とは対米英作戦の具体化であり、決して外交主導の道を再検討する事ではなかった。南方作戦の戦略、戦術の検討に関する稟議書は以下の諸氏の印と花押が附され、青字で修正された。