高知論叢107号

高知論叢107号 page 144/180

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31 高知論叢 第107号れたのではなく、ペン書きの部分と異なり、五日分の筆書きの箇所が一気に書かれたものであることは明らかである。従ってこの部分は、原四郎ら参謀本部員が書いたメモが別途あるはずである。昭和一六年九月六日の御前会議の他に、他日挿入されたと考えられる筆書きの部分は七月三〇日、八月一日、八月六日と、一一月二九日の政府大本営連絡会議であった。すべて有末次の筆跡であり、しかも一一月二九日の筆跡と他の四日は全く同一である。筆字はたとえ同一人が書いたとしても、違う日時であれば必ず違う部分があるはずである。資料一二の様に筆跡、濃淡、筆圧まで同じであることはまず考えられない。当日のメモとは異なる記録をつくるように、有末次班長が上司(杉山総長・塚田次長)から命じられ、有末が筆書きで作文したものと考えられる。3.「上奏時御下問奉答綴」の内容この時、有末次の上司は参謀総長杉山元、参謀次長塚田攻であった。九月六日の議事録について、木戸幸一、近衛文麿の提案が軍に伝えられ、杉山元、塚田功らが、有末次に命じて筆記させたものであろう。有末次の後任の第二〇班班長は甲谷悦雄である。「上奏時御下問奉答綴」末尾(資料六 有末(次)大佐の署名)には「要許可 禁接見開封 有末大佐 引継ギ方 接見 再封 甲谷印」とある。有末次班長が同綴を封印した後、後任の甲谷悦雄が再封して印をした証拠であるが、この文書が戦後も残されたには別の可能性も考えられる。見せるために残した可能性である。昭和天皇の「四方の海」伝説が初めて公になったのは終戦時における東久邇宮稔彦内閣總理大臣の演説であった二九。「上奏時御下問奉答綴」中の有末次が加筆した御前会議の筆書きの箇所は、すべて開戦を左右した大本営政府連絡会議である。有末次は開戦の翌年の昭和一七年一月参謀本部を離れ戦地に出征し、昭和一八年八月戦死する。有末次班長が残した「上奏時御下問奉答綴」を残したものは有末精三ではないだろうか。天の声である「四方の海」の物語が表に出たのは、有末精三が参謀本部の要職に就いた後、東久邇宮稔彦内閣總理大臣による、昭和二〇年九月五日の衆議院演説が初発であった。有末次の兄、精三