高知論叢107号

高知論叢107号 page 153/180

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日米開戦前の御前会議と帷幄上奏に関する書誌的研究22したがって「機密戦争日誌」は記録された日時より、後日、筆写、清書された可能性が大きい。公表されることを前提にして書いた当事者達の記録だけに、開戦や終戦....

日米開戦前の御前会議と帷幄上奏に関する書誌的研究22したがって「機密戦争日誌」は記録された日時より、後日、筆写、清書された可能性が大きい。公表されることを前提にして書いた当事者達の記録だけに、開戦や終戦、戦争判断に関する重要な事項の削除や加筆修正があったであろう事は当然であろう。「機密戦争日誌」には資料四に示すような、毛筆書きで「昭和日記」の表紙が付されている。参謀本部第二〇班は班長以下の将官五名前後の他、下士官、タイピストによって構成されていた。原少佐による一二月七日の日誌には以下のように記されている。「一、人生五十年最後ノ日曜日ナリ 當班戦争発起ヲ明日ニ控ヘ一同(班長神宮参拝ノ為欠下士官及『タイピスト』ヲ加フ)箱根ニ清遊シ越シ方一年ヲ顧ミ歓ヲ共ニシ且之ヲ尽セリ」班長はこの時、杉山参謀総長の伊勢神宮参拝に同行した事が分かっている。参謀総長は伊勢参拝の許しを天皇に許しを請うていた。「機密戦争日誌」の筆記者は筆跡と末尾の署名から特定できる。「機密戦争日誌」は昭和二〇年八月一日に終わっており、終戦時の日誌清書者は種村佐孝大佐であった。八月九日から一五日は軍務課内政班長竹下正彦中佐により「コレヲ以テ愛スル我カ国ノ降伏経緯ヲ一応擱筆ス」として終わっている。種村佐孝は戦後、自らの日誌「大本営機密日誌」を刊行した。種村は昭和一四年一二月から昭和二〇年八月五日まで最も長く第二〇班に勤務した。その間昭和一五年八月から一〇月、昭和一九年七月から昭和二〇年四月まで班長を務めた。種村は大本営戦争指導班(第二〇班)の活動のすべてを知る人物であった。昭和一六年開戦前の班長であった有末次は、昭和一五年一〇月から種村の後任として班長となり、昭和一七年一月甲谷悦雄に後任を譲るまで班長を務めた。有末次はその後戦死した。「機密戦争日誌」は参謀本部第二〇班に関わる業務日誌であり、御前会議、大本営各部との折衝が記録されていることは事実である。しかし、「機密戦争日誌」は決してリアルタイムの日誌ではなく、爾後(戦後)において年ごとに加筆、改竄、清書されたものである。各年において筆