高知論叢108号

高知論叢108号 page 48/136

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46 高知論叢 第108号も,現時点で過去の原子力発電所に関する行政訴訟を振り返るということは,十分意義があることだと考える。というのは,規制庁が行う行為は原子炉等規制法の遵守,指針の定立とその適用という法....

46 高知論叢 第108号も,現時点で過去の原子力発電所に関する行政訴訟を振り返るということは,十分意義があることだと考える。というのは,規制庁が行う行為は原子炉等規制法の遵守,指針の定立とその適用という法的決定の側面を有するものであり,行政訴訟ではそうした法的側面が審査される。そうである以上,再稼働後の行政訴訟の有無にかかわらず,過去の事例を検討することは,今審査を行っている規制庁にとっても予防法学の視点から重要であるといえるからである。こうした関心から,本稿では原子力をめぐる行政訴訟での司法審査問題を扱うことにする。周知の通り,この領域での司法審査のあり方については,伊方原発最高裁基準(最判平成4 年10月29日民集46巻7 号1174頁)がある。そこで最高裁は,司法審査は「行政庁の判断に不合理な点があるか否かという観点から行われるべきであって,」とし,行政判断の違法は「現在の科学技術水準に照らし,右調査審議において用いられた具体的審査基準に不合理な点があり,あるいは当該原子炉施設が右の具体的審査基準に適合するとした原子力委員会若しくは原子炉安全専門審査会の調査審議及び判断の過程に看過し難い過誤,欠落があり,被告行政庁の判断がこれに依拠してされた」場合に認められる,としている。このいわゆる判断過程の統制方式については,しかしながら,当初からこの手法の曖昧性が学説で指摘されてきた。そして,その後のもんじゅ裁判では,特に現実に起きたナトリウム漏えい事故との関係で,この審査方式の問題点が顕在化し,そのことで司法実務上も学説上も多くの混乱を生み出し現在に至っている,といえる。こうした事情を踏まえ,本稿では判断過程を論証過程と捉える立場にたって,これまでとは少し違う角度から,司法審査のあり方,特に過誤欠落の見出し方を模索しようとするものである。そして,このことで,判断過程の統制をめぐる今後の議論に貢献することを目指す。以上のような視座に立って,本稿は司法審査のあり方について分析・検討をすすめるものであるが,その題材を主としてドイツのヴィール判決以降に出された第一ミュルハイム・ケルリッヒ判決(1988年),第三ミュルハイム・ケルリッヒ判決(1998年)及びもんじゅ高裁判決(2003年)に求める。わが国での原子力訴訟を考えるにあたって,ドイツにおける判例,学説を検討することの意