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高知大学経済学会前史稿77(2)旧制高知高校から高知大学へ戦後直後の文部省は,新制国立大学を理系中心とした科学技術振興策の一環としてこれを重視し,文系は教養型への移行を志向しつつも,ブロックごとに人的物....

高知大学経済学会前史稿77(2)旧制高知高校から高知大学へ戦後直後の文部省は,新制国立大学を理系中心とした科学技術振興策の一環としてこれを重視し,文系は教養型への移行を志向しつつも,ブロックごとに人的物的資源を集中した新制大学設立を目指した時があったが,結果として各県1校となった。これは各県都に拠点を設けよという政党と各県の世論に妥協したものだが,その背景には各地域の政治力と設置経費を地域負担とする大蔵省の意向に合致したものであった。四国四県においても拠点を各県都に設置する代わりに,設置経費の過半を県負担とする計画が策定された。以上の様に,地方国立大学の改組は理系学部への集中という流れがあったことは否定できない。特に文理学部が設置された大学ではその後,理系学部が独立し,文系学部の改組は遅れた。ところが旧制高校,師範学校教育の過半は文系であり,しかも人文教養系が中心であるというジレンマがあった。学制移行期において旧制高校,旧制専門学校,師範学校,高等師範学校,大学予科の募集は1948年(昭和23年)まで行われた。1949年(昭和24年),新制大学の設置にともない旧制高校,旧制専門学校,師範学校は新制大学に包括された。旧制大学の入試は1950年度が最後であり,戦時中の旧制高校には臨時措置がとられた。太平洋戦争が激化するともに,1943年入学の学年からは修業年限が2年に短縮されたが,終戦直後の1945年9 月にふたたび修業年限が3 年にあらためられた。旧制高校の社会科学教育は週2 コマが最低限の履修原則であり,旧制高知高等学校の社会科学担当教員はわずか1 名であった。1949年に開学した高知大学は旧制高知高等学校,高等師範学校,青年師範学校を母体とした。高知大学の施設もこれらの各校の跡地と旧兵舎跡地の国有地,県有地,建物が継承された。高知大学設置に至る構想は,GHQ,文部省,高知県議会議長を会長とする「高知大学建設委員会」の圧力があったことが『高知大学30周年史』に記されているが,以下の高知高校側からの提言については従来知られていなかった。旧制高知高校側からの提言はその後の高知大学文理学部の意向を示すものとして重要な意味を持っている。昭和23年(1948年)5 月10日高知高等学校側から「高知大学設置案 高知高等