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110号

100高知論叢第110号ましたが,自分がそれまで勉強した事とはだいぶん距離があり,授業にも自信が全くありませんでした。農業・農村問題については高知で仕事をやっていたので1970年代の農業農村の現場は知っていると思っていました。しかも院生時代京都府農業会議の専門調査員を6年間もやらせていただいて農村調査活動はセミプロだと思っていましたが,高知に帰ってきてからはこの分野から離れました。その理由はかつての自分がしがらみを受けていた,教条的な自作農主義や補助金漬けの農業が嫌になったからです。しかも食料の規制には反対でしたから,農業団体で講演しても批判を受けました。かつて関田先生も経済史と農業経済の2足の草鞋を履いていたご苦労話をされていました。しかし,今の私をご覧になればなんでこんな節操のない者を採用したのかきっと失望するかと思います。それだけ自分の方法論や研究分野は変遷してきました。中川過去の朝倉キャンパス周辺と現在はだいぶん変わったでしょうね。田村朝倉の高知大学を初めて見たのは高知から伊野に行くバスの車窓からでした。当時の朝倉は高知市の辺境にあり,高知から朝倉経由で伊野まで行くためには咥内坂の難所を超える必要がありました。今のようなバイパスはありませんからバスで越えるととても危険な個所がいくつもありました。SLも朝倉駅で一旦高知方面にバックして速度を上げて咥内坂を登っていました。1950年代の朝倉キャンパスの前は歳末大売り出しで人がごった返していました。1960年代の朝倉は元肥の香りと畜舎,蚕舎の香りが充満し,学生の下宿はその農家のはなれにありました。かつて小津町にあった南溟寮は旧陸軍病院でしたが,友人の寮室によく行きました。あまりに汚いので畳の上に土足で上がっていました。中川高知大学文理学部当時のお話をお聞かせください。田村1949年高知大学開学時の社会科学担当教員はわずか1名でした。当時,社会科学分野は愛媛と合併という文部省案が出るのは当然でした。その案は