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110号

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概要

110号

巻末インタビュー101政治の圧力で否定され,高知大学文科の中の社会科学専修となり,その後社会科学科となりました。次第に教員,学生定員がふえて,1960年代の文理学部社会科学科当時の教員は経済学4名,法学3名,学生定員は20名でした。社会科学科の開設専門課目は,民事法,刑法,行政学,政治学,法律学演習,経済原論,財政学,経済政策学,経済史,経済学演習,社会学各4単位,卒論6単位でした。そのうち法律,経済各専攻科目30単位,文科の関連科目8単位,自由選択10単位,卒論を除き合計78単位が卒業に要する専門科目でした。社会科学科時代と比較すると1980年代以降,30名に教員が増え,臨時増募を含めて最大時の学生は1学年150名を超していましたから,社会科学,特に経済学は拡大路線を経てきました。半世紀前から比べると,今日の教育研究はとても充実してきたと思っていますし,特に若い先生方の教育への改革意欲は素晴らしくなってきたと思います。中川高知大学設置当時の事をお話しください。田村1949年以降高知大学は旧制高知高校を母体にして文理学部が設置され,文理,教育の定員を一部割譲して農学部が設置されました。農学部設置については県からの要望が強く,県費約1億円の募金と,歳費によって高知大学が設置されました。2億円を超す当初費用の内で農学部への配分は6割でした。1960年代まで文理学部は文科,理科の2学科体制で,社会科学は文科の1専修に過ぎませんでした。でも社会専攻の学生定員は20名しかなく,高知大学の中では社会科学科,経済学科への入学は高知大学では最難関でした。国立一期校時代の社会科学科受験生は定員の実に20倍を超していました。中川高知大学の社会科学科時代の先生のことをお聞かせください。田村高知大学開学前の旧制高知高校の社会科学専門の先生は塩尻公明教授ただ一人でした。専門分野での塩尻公明教授はジョン・スチュアート・ミルの研究者・翻訳者として有名でした。思想家としての塩尻教授が一般にも広く知られたのは教え子の遺書を論評した著書でした。C級戦犯として異国で処刑された元高知高校学生,木村久夫の遺書を紹介した『或る遺書について』