ブックタイトル110号

ページ
67/126

このページは 110号 の電子ブックに掲載されている67ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

110号

ブックを読む

Flash版でブックを開く

概要

110号

土佐藩領の湊に関する覚書61ここに記載されている情報(内容)が,いつの時期のものであるかは,検討を要する。「堀湊」に関する記載は,享保2(1717)年の幕府巡見使に対応した(註基礎史料4)と記載内容がほぼ同じである。宝永4(1707)年の大地震と津波により,佐喜浜の堀湊の入り口が浅くなり干潮時には「大船」が入津できなくなったことを記している内容も同じである。その史料(『密書』)を採録したものであろう。しかし,全面的にその時期に作成された史料を採録したかと問えば,必ずしもそうでないところもある。『密書』では,阿波藩境の甲浦から伊予藩境の藻津までの海路による距離を記した箇所があり,その距離を「船路」92里半として,その間に大型廻船などの「大船」が入津寄港できると思われる主要浦と各浦間の距離を記している。すなわち,甲浦~佐喜浜(5里),佐喜浜~津呂(5里半),津呂~室津(26丁),室津~手結(15里),手結~浦戸(6里),浦戸~井ノ尻(3里),井ノ尻~須崎(3里),須崎~下田(22里14丁),下田~清水(13里),清水~小間目(7里21丁),小間目~天地(4里),天地~福良(4里),福良~藻津(3里25丁)の如くである。前掲『南路志』「東西湊」にはなく,『密書』に記載されている浦(下線部),『南路志』「東西湊」のみに記載されている浦(泊)もある。なお付言しておくと,伊予国境の藻津,あるいは福良は海辺の集落であるが,「浦」ではなく,郷庄屋が置かれ郷村支配にうけた「村」であった。『南路志』の「東西湊」には当時の日本国内の大型船舶が入津寄港,悪天候等で避難できる湊を記載したものと思われる。湊の大きさや水深もこれと関わる情報である。ただし,下田浦が記載されていないのは不可思議である。周知のように四万十川河口の下田浦は,幡多郡屈指の大規模浦で大型廻船も多く保有する,土佐藩領のなかでも代表的な湊である。また大型廻船が寄港できる「川湊」でもあった。単に記載洩れによるものか,あるいは「東西湊」に記載された「湊」は後述する「本湊」の一部と「堀湊」のみで「川湊」は含まれていないことと関係するのか,いずれにしても判然としない。『南路志』の「東西湊」および『密書』には,甲浦から浦戸までの航路間において,「堀湊」を除くと「湊」(ここでは大型船舶の寄港,避難,収容可能な浦)の記載がない。この点は前掲拙稿で「堀湊」について,自然史を前提に,