ブックタイトル110号

ページ
77/126

このページは 110号 の電子ブックに掲載されている77ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

110号

ブックを読む

Flash版でブックを開く

概要

110号

土佐藩領の湊に関する覚書71茅浦を出船後は,途中は寄港せずに夜間も土佐沖を航行しようとした様子,その航行の速さが窺われる。同船は既に浦戸沖合を通過していたのを引き返して,浦戸湊への避難寄港を期したのである。史料では浦戸湊への入津が困難だった状況とその理由を記している。すなわち,4月1日は,約2時間前に東風であったのが,10時前後頃には強い西風となって,陸上の見通しも悪くなり,すなわち浦戸の方角や自らの位置も確認できず,その上「白坤風」である南西風の吹き返しもあって,浦戸(湾)へ入津できなかった,とする。前述したように,5月は浦戸湾の口は,梅雨の「白はへ」「黒はへ」と称する風が昼夜を問わず吹いていて出船が困難であった。ここでみた史料の時期はその一カ月前の4月で,格別に藩の江戸廻船では問題にされていない時期である。にもかかわらず,天候の急変や「難風」による条件次第で,湊への入津は困難で危険がともなったのである。おわりに土佐藩領の「浦」の多くは,「湊」がなかった。約7割を占めたと考えられる。しかし,そのような「浦」でも廻船(荷船)の寄港やその保有が全くなかったかというと,否である。本稿で明らかにしたように,海上に碇を下しただけの振繋(ふりがかり)で停泊が可能であったからである。ただし天候条件,とりわけ風によって振繋は常時可能ではなく,不安定性をともなった。天候悪化の際は近くの「湊」のある浦が避難港の役割を担った。幕末には,船着場築港の動向もみられるようになる。幡多郡尾浦は文久3(1863)年に家数59軒,人口271人の小規模な浦でありながら,天保年間に鰹船5艘を保有する鰹漁業が盛んな浦であった。また市艇の小廻船も保有し商業・海運業に従事する住民もいた。文久3年の59軒のうち,鰹漁業に関わる「水主」51軒,商業・海運業に従事する「商人」が8軒であった(註10)。この浦では,文久2年に比定される史料から,「船着波止」場40間(約72メートル)の築造普請願いを提出している。鰹漁船や廻船の係留のためである。このような動向は尾浦に限らなかったであろう。