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72高知論叢第110号一方,「湊」のある浦では,海運業,商業の発展の基盤を有した。ただし,海運業や商業は,地域および内陸部の産業や市場関係,さらに内陸との交通を担う河川や陸上輸送,さらに領外市場や中央市場との地理的・歴史的関係など,その様相は一様ではなかった。「湊」が少ない土佐東部が幕末期でも大型廻船や小型廻船(市艇)の数で,土佐西部を上回っており,「湊」のない浦でも廻船や市艇の保有がみられるのである(註11)。土佐藩領の「湊」の分類は,当時「本湊」「堀湊」「川湊」が史料で確認できる。このうち「本湊」は内陸に湾入した天然の良港で,「入海湊」の呼称もみられる。「堀湊」は陸上を掘削して人工の湊を築造したもので,土佐東部の「堀湊」築造はその歴史的意義が大きい。「川湊」は河川の河口部に築造された湊である。湊は,その口の広さ,湊内の広さ,深さがその良否の基準をなした。安定して入津できるか,多数の廻船を収容できるか,また廻船の規模による入津可否が判断される深さも重要な基準をなした。深さでは潮の干満によるその変化も問題であった。幕末に蒸気船が土佐に来航するようになると,浦戸沖に停泊して,使者などは高知城下へ艀船で移動,本船は須崎に回送し入港停泊した。須崎が高知城下に近い最上の天然の良港であったからである。慶応3(1867)年の長崎での英国水夫殺害事件のために来航した英国公使パークスが軍艦パジリスク号で須崎港に入港し,同地で交渉が行われたのは周知のところである。浦戸湾は当時蒸気船の入港には水深が浅かったからである。近代になると,高知県の交通網は新たな整備,展開をみる。1886年の主要港湾の船舶入港数は浦戸港が6083隻,甲浦港が593隻,須崎港が510隻,下田港が420隻であった(註12)。近代には港湾の建設が進む一方で,海運も新たな編成が進み,近世の各浦も自ずとその変容を余儀なくされていったと考えられる。註(1)拙稿「近世後期における土佐藩領の浦東灘と西灘の比較を中心に」(『人文科学研究』13号,高知大学人文学部人間文化学科,2006年),同「浦の地域社会像近世社会と浦」(若尾政希・菊池勇夫編『<江戸>の人と身分5覚醒する地域意識』,吉川弘文館,2010年)。