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110号

76高知論叢第110号れたと推察される。但し,当時高知県漁民は,大型漁船を使う愛媛県,鹿児島県出身漁民とは対照的に,小型な動力船を個別に操って出漁していたと見られる。(3)希望者段階を含めた漁民の出身地区:吾川郡浦戸村が1家族,吾川郡御畳瀬村が3(内,2は実際には移住せず),安芸郡室戸町浮津が1(実際には移住せず),同室津が2(実際には移住せず),高岡郡宇佐町が1,高岡郡宇佐町宇佐が3(実際には移住せず,後に1が移住),高岡郡宇佐町福島が1(実際には移住せず),高岡郡多ノ郷村大谷が2(内,1は実際には移住せず),同野見が1,幡多郡清水町清水が2(内,1は実際には移住せず),同中ノ濱が5(内,2は実際には移住せず,後に1),幡多郡白田川村上川口が4(内2は実際には移住せず),幡多郡清水町松尾が後(1927年)に5となる。実際の移住段階では中部から西部,殊に幡多郡清水町松尾(現土佐清水市松尾足摺半島西岸),同中ノ濱(現土佐清水市中浜松尾村の北方),さらに同郡白田川村上川口(現大方町上川口)等に集中していた。(4)南方澳における居住地:1926年に當地に渡った高知県漁民は,後に第2漁港が築港され「内?湿地の良好の地形」と称された,港の南側の小山の麓に現在の「華山路」南面,「南安小学」近くに位置するであろう住宅を提供されたのではないかと推察される。なお,南方澳に関しては,漢族の「開拓」開始から起算しても200年以上あるいはそれ以前から原住民(「生蕃」,「熟蕃」)の存在が文献において確認される。時に漢族と原住民が対立する状況は,日本の統治が始まっても管見の限りでは,高知県漁民が南方澳に移住する十年前,1914(大正3)年までは変わらなかった。高知県漁民は,移住以前おいてこのような蘇澳鎮南方澳の歴史について基本的に知らされず,また実際に移住後も原住民の居住区とかなり近い場で生活を営むことになったのではないかと考えられる。以来,この高知県漁民の移住に関する史料の収集の方途を探っていたところ,筆者は,偶然『台湾日日新報』(DVD版明治・大正・昭和編得泓資訊有限公司)の記事を纏まって見る機会を得た。本新聞は,日治時代の台湾の歴史を