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110号

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110号

日治時代・台湾南方澳への高知県漁民の移住の背景85実際,他の地方についての次の記事を見ると,田村実の台湾訪問の後,基隆以外の漁業地への高知県漁民の派遣は活発化していった感がある。◆1925(大正14)年10月20日高知県漁夫来高期□高雄水産会の斡旋で高知市清水町の漁夫十二名は高雄に招来し各漁船に乗込しむる事に決定したので一行は十一月上旬高雄到着の予定であるしかも,『新報』の記事に依れば,同様の動きは他県についても見られる。次の静岡県の鹿児島県に対する記事をもとに鰹漁業を例に取ってその背景を推し量るならば,大型動力船による操業が従前の国内沿岸漁場の実態的秩序に圧力をかける事態が看取される6。因みに,本記事は前掲の「高知県漁夫の高雄来港」記事と隣り合わせの形で掲出されている。◆鹿児島の鰹漁業者が台湾の漁場に発展計画を樹て試験場長や営業者来台(改行)鹿児島県に於る鰹漁業は近年長足の進歩を遂げ鰹節の生産高五百万円以上に達し本邦鰹節産額に於ては第二位を占め現在の鰹漁船の総数は百五十隻を算するの盛況であるが近年静岡の大型鰹漁船が鹿児島の鰹漁場に押寄せて来ので聊か(改行)脅威□を感ずると共に一面には大に刺戟を与え小型発動機船から大型漁船の建造に転じ…(以下省略)この点から改めて見ると,1926年から始まる高知県漁民の南方澳への移住は,本県の漁民を「(台湾)全島の漁業地に移住」させていく県当局の事業の,実質的な第一歩であったと言えるであろう。前稿「戦前,高知県漁民の台湾・南方澳への移住(序説)」でも述べたように,こうした高知県水産当局の計画は,当時の台湾総督府の蘇澳港振興計画と完全に合致し,そこで当該漁民の南方澳移住は大々的に進められる。『新報』は幾度も南方澳築港に関する記事を掲載している。以下はその代表的な記事の一つである。◆1926(大正15)年5月5日(蘇澳港の写真掲載:一面(7段)の約14分の1,2分の1段分の大きさ)